過去の自分に対する恥ずかしさ

Twitterばかりやっているけれども、まとまった文章を書くのも良いものなのでは、と思ってこのブログをまた動かしてみることにした。三日坊主なのでいつまで続くかは分からない。次の更新は3年後かも。

このブログを再稼働するにあたって過去の記事を読み返したら、とても恥ずかしい気持ちになってしまった。なので、耐えられないほど恥ずかしい記事は非公開にした。残している記事はまだマシなやつ。

過去の自分(の行動やその結果)を恥ずかしく思う気持ちはどこから来るのだろう。過去の自分の人格(と感じ取れるもの)と今のそれとの間のギャップに対する違和感が恥ずかしさの正体だろうか? 「今の自分」なら絶対にしないようなことを、「過去の自分」がしてしまっている、その痕跡が「今」に残っていて、「自分」という結節点を通じて「今の自分」とリンクしてしまう。もはや自分である(あった)ことが信じられないほど今の自分とかけ離れた「過去の自分」が、いくらかけ離れていても間違いなく「自分」であるが故に、「今の自分」のすぐ隣に寄り添ってくる、その「気持ち悪さ」が「恥ずかしさ」なのかもしれない。

過去の自分は今の自分とは別人であり無関係だと割り切ってしまえば、恥ずかしいと感じることも無いはずだと思う。今の自分の感覚では受け入れ難いことをしていると感じても、ただ目を逸らせば良い。目を逸らすことができないのは、「自分」という結節点があまりに強固だということなのか。

黒歴史」という言葉がある。公にしたくない自分の過去のことをそう言うらしい。私が今書いているこの記事も数年後には(あるいは早ければ数日後には)黒歴史になっているかもしれないと思う。少し先の未来の自分が今の自分を受け入れてくれる保証はどこにも無い。「人格」というものがどこまで連続的なものなのか疑いたくなってくる。