玉虫色

 何か意見をたずねられたとき、「それは場合による」と返してしまう。なんの情報もあたえない発話だ。場合によるのはあたりまえなのだから、はじめから「こういう場合はこう。私の場合はこう」という話に踏み込んだほうがいいのは、わかっている。わかっているけれど、まずワンクッション、「場合による」という玉虫色の発言を、会話の場に出しておきたくなってしまう。

 子どものころ読んだ本のなかに、「玉ねぎの皮をむきすぎてなくなってしまう話」がしょっちゅう出てきた気がする。あまり頻繁に出くわすので、「また玉ねぎか」「どうせむきすぎてなくなっちゃうんでしょ」と、うんざりしていた覚えがある。そんなにその「玉ねぎネタ」が当時流行っていたのか? と、今思うと信じがたいけれど、とにかく、私の記憶のなかではそうなっている。

 玉ねぎには、キャベツみたいな芯がない。外側からぺろぺろとむいていくと、最後にはなくなってしまう。私の心もおなじではないか、と思うことがある。一層ずつ「私の心」とやらを掘り進めていくと、その先にはとくに「本心」あるいは「本質」のような確固としたものがあるわけではなく、おなじような「皮」がずっと続いていき、最後にはなくなってしまうのではないか。

 そう思うとなんだか怖くて、あまり自分というものを掘り下げたくない。「場合による」という返答は、おそらく時間稼ぎだ。私が私から目をそらすための。

 好き嫌いや意見をはっきり言えるひとたちが、まぶしい。「私は〇〇な□□が好きだから、△△は絶対にはずせないんだよね〜!」と、自己分析まで添えて自信ありげに話すひとたち。私は私がよく分からない。「××が好き」と私が口にするとき、それは祈りに似ている。きっと自分はこうであるはずだ、こうでありますように、という祈り。

 

 でも、こうも思う。そもそも、本心や本質は私の内側にあるものなのだろうか。外から押されたときの反発。あるいは、引き剥がされそうになったときの抵抗。それこそが私をあらわすものなのでは。

 私には私の心がわからない。だから、主観を問われたときはまず、玉虫色で塗ってみる。そのなかで気に入った色、しっくりくる色を塗り重ねていくうちに、「これが私だ」と思えるようになるといい。

 そう願いながら、日々、祈るように色を選ぶ。淡く塗り重ねていき、私自身の反応をじっと待つ。

 欲張りなのかもしれない。手近にあるよさそうな色を拾うのでは飽き足らず、思いつくかぎりの全色をまず並べてみて、そのなかから選びたいのだ。

 そうなると、私にはまだしばらくのあいだ、玉虫色が手放せそうにない。

 

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