磁石、あるいは惑星のように

 私はちぐはぐである。私の一部はあっちに行こうとするのに、私の別の一部はそっちに行こうとする。結果、どちらにも行けずにぼーっとしていることも多い。

 優柔不断であるのとは、すこしちがう気がする。ひとりの私が、決めあぐねて迷うのではない。私のなかに複数の意思がある。あっちをやりたい私と、やりたくない私。そっちをやりたい私と、やりたくない私がいる。そのままでは喧嘩になるので、たいてい途中で仲裁役の私が出てきて、「まあまあ、とりあえず珈琲でも飲みなよ」と、その場をおさめている。

 毎日が、私と私の綱引きでできている。昨日はあっちの勝ち。今日はこっちの勝ち。明日はどの私が勝つかわからないけれど、どれかが勝てば、どれかが負ける。私のぜんぶが勝つことはない。

 いや、絶対にないわけでもない。

 ごくたまに、私の気持ちが「そろう」ことがある。それは、推しを見るときだ。

 

 推しという存在は磁石のようだと、私は思う。いつもちぐはぐな私の気持ちが、推しを見るときにはバシッとそろう。細かな砂鉄のN極がいっせいに同じほうを向くように、私の全細胞が推しのほうを向く。

 そのときは、私のぜんぶが「勝つ」。

 オタクの言葉に「優勝」というのがある。ほかのオタクがどんな感覚でこの言葉を使っているのかはわからないけれど、私にとっての優勝は、この「そろう」感覚だ。私のぜんぶがそろって同じ方向をむき、同時によろこんでいるときが「優勝」。ほかの何でも得られないこの感覚が忘れられなくて、私は何度でも推しを見に行く。

 

 推しがもつ力は、磁力だ。あるいは、引力と呼んでもいい。推しが磁石、あるいは惑星だとしたら、私は鉄屑、もしくは、宇宙にただよう塵である。推しが近くにくると、ぎゅん、と引き寄せられる。そこに人の意思は介在しない。それは宇宙の摂理なのだ。

 

 

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