珈琲が飲めること

 数年前、珈琲が飲めなくなった時期があった。胃が荒れて、カフェインを受けつけなくなってしまったのだ。好きだった珈琲、リフレッシュのおともだった珈琲なのに、飲むと気持ちが悪くなってしまう。裏切られたような、あるいは私のほうが裏切ってしまったような気持ちになった。

 同じころ、会話ができなくなることがあった。もともと私は口数が多いほうではない。それでも、なにか話しかけられたら、平凡な返答くらいはできるはずだった。「そうですね」とか、「それはいいですねー」とか。

 ところが、話しかけられても「あー……」とか「えー……」と言ったまま、あとのことばが続かないということがあった。ことばをすくいあげようとしても、ゆですぎたうどんのように、ぶちぶち切れて落ちていってしまう。手のうえにのこるのが「あー」とか「えー」だけなので、それしか発することができない。さすがにやばいと思った。私は疲れすぎている。おかしくなりかけている。

 それで仕事をやめた。我ながら英断だったと思う。あと1か月遅ければ、どうなっていたかわからない。

 

 もうここに来なくていいんだ。そう思うだけで、随分と気持ちが軽くなった。それでも、すぐに元どおりになるわけではなかった。どろどろに溶けて形がわからなくなった自分というものを、好きだったはずのものを支柱にしてぺたぺたと貼り付け、形をつくっていくような日々をすごした。私はこれが好きだったはず。私はこんな人間だったはず。

 はじめのうちは、何度も形がくずれた。やめたはずの仕事の夢を見て、みじめさのぬるま湯に浸かったような気持ちで目覚めることも多かった。そうすると、また自分が溶けだしている。わからなくなっている。それでも希望を失わなかったのは、私の好きなものたちが、こっちに来れば大丈夫、といつも言ってくれている気がしたからだ。

 

 去年くらいから、自分というものがしだいにくっつき、乾いてきて、形が保てるようになってきた気がする。動けるようになってきた。元どおりかどうかはわからないけれど、とにかくまあ、そこそこ動ける。本も読める。うれしい。

 珈琲もまた飲めるようになった。

 飲めなかった時期があったのが嘘みたいに、おいしい。飲むと気持ちが落ち着くし、カフェインで頭がすっきりする。私は取り戻したんだ、と思う。

 

 

2022年最後に読んだ本:

 

2023年最初に読んだ本: