2021年の2月にオタク論の【1】を公開し、これからひと月に一本くらいのペースで書くぞと張り切っていたはずなのに、気づけばもう2022年の7月だ。更新を怠っていたあいだに、私の推しはアイドルグループを卒業した。
私はもともとアイドルのオタクではなかった。推しがたまたまアイドルで、推しを追いかけているうちに気づけばアイドルオタクになっていた、というのが私の実感だ。いつまで「ファン」でいつから「オタク」になったのか*1、振り返ってみても線をひくのはむずかしい。はじめて同じCDの二枚目を買った、あの日だろうか。それとも、ライブのない特典会だけのイベントにはじめて行った、あの日だろうか。
推しがアイドルでなくなった(と、本人がSNSに書いていた)いま、私はもうアイドルオタクではないのかもしれない。
いつか推しがまたアイドルをはじめ、私もアイドルオタクにもどる日が来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。
未来のことはわからない。不安も期待もある。
たしかなのは、推しがアイドルとしてそこにいて、何年ものあいだ私の生活の軸だったということ。そのおかげで私は生きてこられたということ。
アイドルが私にくれたものは何だったのか。自分なりに言葉にしておきたいと考えて、いまこの文章を書いている。
1. 家から外に出ること
家から外に出るのには勇気がいる。家の外には知らない人がたくさんいて、暑かったり寒かったりするかもしれなくて、楽しくすごせるとはかぎらない。
家のなかは快適だし安全だ。いろんなメディアがあって、退屈することもない。でも、ずっとこもっていると空気が停滞し、よどんでいく感じもする。
外に出たい気持ちと、やっぱりやめておこうという気持ち。その天秤を「外に出る」のほうに傾けてくれたのが、私にとってはアイドルだった。
そしていつでもその選択を「正解」にしてくれた。「べつに来なくてよかったな」と思った現場はひとつもない。
アイドルは、家にこもりがちな私の生活に風穴をあけてくれた。
2. 自分の五感を使うこと
かつての私は読んだ本の数がしあわせに比例すると大まじめに考えていた。本のなかにはだれかの人生がある。文字を追うことでいくつもの人生を体験できれば、私の人生はもう十分以上だと思っていた。
夏。私はアイドルの野外ライブ会場にいた。大雨がふり、ずぶ濡れになったが、開演前にはやんでいた。暑さで肌のうえの水分が乾いていく。ステージ上の推しは夏の日差しのなかでいつも以上にくっきりと輝き、歌声は高い青空にどこまでも響いた。終演のころには心も体も熱いもので満たされ、ほてった身体に夜風が心地よかった。
その日から、夏は特別な季節になった。こんなライブは夏にしか体験できないと思ったからだ。と同時に、あれ、と思った。いままでの夏、何してたっけ。物語のなかの夏はいくつも知っている。でも、私自身の夏の記憶は、一体どこに……。
夏がこんなに楽しくて、特別な季節なのだとしたら。自分の五感を使って体験しないと「もったいない」。そんなふうに思うことができたのは、生まれてはじめてだった。
3. 存在と労働の意義
情緒が不安定なので、すぐに病む。そのたびに問わずにいられないのが、自分の存在意義だ。
なんで生まれてきて「しまった」んだろう。ここにいるのは自分じゃないほうがよかったのではないか。そんなこと考えても仕方がない。でも、なにか「理由」がほしくなる。
推しのライブを観るとそれが一挙に解決する。「このために生まれてきたんだ」と思えるからだ。アイドルはほかにもたくさんいるけれど、私が私だから、この現場を、この推しをえらんだ。それは絶対に疑いようもなく「正解」だ。そう思わせてくれるものを、かならず見せてくれた。いわゆる「優勝」というやつだ。推しはいつでも私を「優勝」させてくれた。
そして、生きていくうえで欠かせない労働。自分が生きることの意義を見失うと、当然、労働の意義もわからなくなる。生きていくのに必要なぶん以上の労働、つまり残業をもとめられると、「いま、何のために働いているんだっけ」とますます迷宮に迷い込む。
アイドルオタクは無限にお金がかかる。裏をかえせば、いくらでもお金をわかりやすい「価値」に変えられるということだ。はじめて同じCDの二枚目を買ったときは、同じ商品をいくつも購入するシステムが救いになるとは思ってもみなかった。
でも、たしかに私は救われた。労働の虚しさが、お金という仲介を経て、推しとの思い出にかわっていく。これが意味だ。これが価値だ。いささか依存的で不健全な価値観かもしれないが、いつのまにか追い詰められていたあの頃の私には、その「答え」が必要だったと思う*2。
4. 次の目的地
活動がさかんなアイドルを追いかけるのには、無限にページがふえていくスタンプラリーに参加するような楽しさがあった。スタンプ(=行った現場)が増えていくことの達成感と、ふりかえったときの充実感。次の現場はどこだろうと待つ時間も楽しかったし、これからもスタンプが増えていくんだと思うと胸がおどった。
次の目的地があって、行きさえすれば絶対に楽しいとわかっていて、それまで頑張って生き延びようと思える。それは心理的に大きな支えになった。落ち込んでいるとき、やる気が出ないようなときにも、真っ暗な海のなかでも導いてくれる灯台のように、「あそこに行けば大丈夫だ」と思うことができた。
楽しい時間がおわってしまうのは、いつも寂しい。反動で落ちこんでしまうこともある(「ロス」というやつだ)。でも、「また次がある」と思うと、前向きになれた。
じゃあまた、次の現場で。そう言ってほかのオタクたちと別れていたあの年月の、なんと貴重だったことだろう。
推しがアイドルでなくなったいま、次の現場は約束されていない。でも、私はもう大人だ。次の目的地は自分で決めればいい。そうやって生きていくなかで、チェックポイントのように推し*3の姿を拝むことができればしあわせだ。
いまそう思えるのも、推しがアイドルとして長い時間、何度も何度も「次」をくれたからにほかならない。
5. 「好き」のフィルター
推しがいると、あらゆるものに「好き」のフィルターがかかって見える。
会社から出たときの空が「推し色」だっただけで今日はいい日だと思えたり、飲食店で推しの名前がはいったメニューを見かけただけで心がときめいたりする。
それはたぶん、作用としては恋愛に似ている。恋愛と異なるのは、アイドルがアイドルであるかぎり、オタクがオタクとして節度をもって推しているかぎり、いつまでもどこまでも「好き」でいていい(と、アイドル自身が言ってくれる)ことだと思う。
好きという気持ちを、声を大にして叫ぶことさえできるのがアイドル現場だ*4。こんなこと、日常ではありえない。
好きな気持ちを日々高め、日常にフィルターをかけて生きていく。それがアイドルオタクの営みなのだろうと思う。
推しがアイドルでなくなったいまも、私のフィルターは生きている。それを持ち続けていることをこれまでのようには大っぴらにしないほうがいいのだろうなと思いつつ(だって推しはもうアイドルではないのだ。一般人でもないけれど)、これからも人知れず、そのフィルターをとおして世界を見る。そうすれば、暗い世のなかもぐんと明るく見える。これは私のお守りだ。
思いつくかぎりを書いたつもりだけれど、こんなのではぜんぜん足りないような気もする。そのくらい、アイドルが私にくれたものは大きかった。
アイドルになってくれて、アイドルでいてくれてありがとう。と、いちオタクにすぎない私がお礼を言うのも変な話だけれど。
私の推しアイドルだった人への感謝と、すべてのアイドルさんへの敬意をこめて。
アイドルがくれたもののおかげで、今私は生きています。