↓前編
前編を書いてから20日以上たって、やっと読み終えた。一気に読んでしまうのがもったいなくて、おちつける時間だけをつかって少しずつ読みすすめていた。
やっぱり、と思った。やっぱりこの本は、読んだら読む前には戻れない。
わかっていたから、ずっと読み返せずにいたのだ。この気持ちにちゃんと向き合う時間があるときに読まないといけないと思っていた。
強い力で心をゆさぶるわけではない。悲しげな軋みをたてながら揺れるぶらんこを、心の底にそっと残していく。
主人公の「私」は弟が残したノートを読みながら後悔する。122ページに顕著だ。どうしてあんなことをしたんだろう。なぜこうすることができなかったんだろう。そうすれば〜だったかもしれないのに。
弟は姉の後悔なんてのぞんでいないだろう。でもきっと、過去の言動を悔やむその誠実さが、ふたりのあいだの「引力」を強めている。
——というのは物語を読み終えたから言えることであって、当人たちはいつだって不安をかかえながらぶらんこを漕いでいる。「引力」は目に見えない。握っては離れていく手。ぶらんこの軋み。
おはなしが本当のことかなんてどうだっていい。読みながら、「私」はノートをさする(181ページ)。弟と一緒にすごした時間を確かめるように。「私」にとっていちばん大切な真実だ。
弟のかくおはなしはときどき残酷だ。ペンギンのおしくらまんじゅう。ゾウのローリング。木から落ちるナマケモノ。
子どものかいたおはなしなのに、と思っていた。
でも、現実だって残酷だ。死がとうとつにやってきて、大切なものをうばっていく。子どもだからって容赦はしてくれない。子どもも大人も、同じようにむごい世界を生きている。子どもはまだ慣れていないぶん、むしろ鮮烈に現実のむごさを感じているかもしれない。
『ぶらんこ乗り』はやさしいお話だ。でも、かなしい。
かなしいけれど、かなしみにも価値があると思わせてくれる。このかなしみは、引力が生み出したさざなみだ。
物語が人の心を動かし、人はまた物語をつくる。「ふるえ」が伝わっていく。
そういうふうにできている。そういうふうに生きていく。