手ごたえ

「打鍵感」という言葉がある。パソコンのキーボードを打つときの感触のことらしい。2〜3万円もする高価なキーボードのレビュー動画で、YouTuberがこの言葉を連発していた。「このキーボードは打鍵感が素晴らしい」「こちらは打鍵感が物足りない」というふうに。

打鍵感。私には耳馴染みのない言葉だった。

高級なキーボードがとくに欲しいわけではないが、紹介動画は見ていて面白い。もし買うならこれかなあと考えるのが楽しいし、何より紹介している人が楽しそうなのがいい。

動画のおかげでキーボードの種類に少しだけ詳しくなった。メカニカルキーボードの機械軸には青軸・赤軸・茶軸の3種類があり、それぞれに打鍵感や打鍵音が異なる。キーストローク(キーの沈む深さ)やキーの表面の素材によっても、打鍵感は変わってくるという。

打鍵感への意識が低い私には、「カチカチするキーボードとカチャカチャするキーボードがあるんだな」くらいしか具体的なイメージは持てなかったものの、

「キーを押したときの『押した感』がしっかりあるのがいいですね」

「キーが手に吸い付くような感覚があります」

と、そのYouTuberが打鍵感をさまざまに語る様子はたいへん興味深かった。ある人にとっては単なる入力機器であるキーボードの、打鍵感というものにここまでこだわる人がいるのだ。

 

打鍵感。キーを押したときの反発によって生まれる手ごたえ。押した感。

マニアックだなあと思う一方で、「手ごたえへのこだわり」は人間の本質のようにも思う。

たとえば、電子書籍が世に出てきたとき、その利便性を認めつつ「紙の本がいい」という人はかなりの割合でいた。理由をきくと「紙の感触、ページをめくる感触が欲しい」という意見が私の周りでは多かった。「紙の匂いが好きだから」という人もいた。今や電子書籍で読むのが主となった私も、たまに重さや厚みを感じながら紙の本を読むと、やはり楽しい。ハードカバーの本を閉じたときの顔にかかるわずかな風やパタンという音で、物語が終わって現実に戻ってきたことを感じたりする。

ちょっと種類は異なるが、ソシャゲで序盤にレベルがばんばん上がるのも、そのほうが「手ごたえがあるから」だと思う。コンソールゲームのコントローラが振動するのも、手ごたえを生むためだろう。

いちばん誰にとっても身近な例では、「食感」がある。ひとは、味や栄養と同じくらい、食感も重視して食文化を育んできた。食事の満足度を表す「食べごたえ」という言葉もある。

どんな行為でも、行為の直接的な成果だけでなくその過程にある「手ごたえ」が大きな価値をもつことがある。

 

感染症が流行し、「新しい生活様式」が提唱された。

感染症の流行を抑えるには必要な、合理的な指針だと思う。でも、ふと不安になる。「新しい生活様式」がこのまま長く続けば、私たちの生活はいろんな「手ごたえ」を失ってしまうのではないか。

それは、ある人にとっては大勢で集まって同じ皿の料理を食べることかもしれないし、またある人にとっては、満員のライブハウスで人いきれの熱量に溶け込むことかもしれない。他者の目にはマニアックとも映るそうしたディティールが、その人の生活の「手ごたえ」であり、「生きがい」だったりする。

 

生きのびること自体に不安を抱えている人にとっては、お気楽な不安かもしれない。けれど、手ごたえがない生活はいつまでも続けられないだろう、とも思う。

「新しい生活様式」って、いつかは終わるんですよね? 私は私が大切にしている「手ごたえ」を、まだ未来に期待していてもいいんですよね?

と誰かに問いかけたくなるこの気持ちは、きっと私だけのものではないだろう。