キモいという直感とフェアネスの精神

学生だった頃、女子たちの間で「あの人ちょっとキモい」と噂されていたある大人が性犯罪で捕まった。調べれば住んでいた地域などが分かってしまう恐れがあるので詳細は伏せる。

その人は外から見える行動に何か問題があるわけではなかった。ただ、仕草や口調などが複数の女子たちから「キモい」と評されていた。当時の私は「あの人特有のあの雰囲気をキモいと評する気持ちも分からなくもないが、表に出ている行動に問題がない以上、大っぴらにキモいと言って避けたりするのは良くないだろう」という、いわばフェアネスの精神のつもりで、その大人と普通に接するように心がけていた。

ところが、蓋を開けてみるとその人は性犯罪者だった。幸い、私は被害者にはならなかったが、「キモい」と言ってその人を避けて生活していた女子たちは危険察知能力が高かったのかもしれないと思った。「キモい」という直感をフェアネスの精神で封じた私は、結果だけ見ると、性犯罪者とにこやかに会話してしまっていたのだ。被害者が出ていることにも気付かずに。そう思うと寒気がした。

「キモい」という感情は、危険を察知するための直感が働いた結果なのかもしれない。あの人ちょっと怪しい、危険かもしれないという直感。

もちろん、直感が外れることもあるだろう。直感的に「キモい」と思ってしまった人が、実はめちゃめちゃ良い人だったということもありうる。その場合は、初めに直感だけで「キモい」と思ってしまったことを猛烈に反省するだろう。ただ、直感の当たり外れの確率なんて分からないし、直感が当たっていて本当にキモい人(ここでは性的、暴力的危険人物という意味合い)である可能性が少しでもあるのであれば、避けるに越したことはないという考え方もある。

小さい子どもと歩いている親が「見てはいけません!」と言って急いで子どもを誰かから引き離そうとする場面。これも、その対象となった人からすれば、「失礼だなあ(自分は危険人物ではないのに)」と思うかもしれない。一方で、親からしてみれば、自分の子どもが危険な目にあうかもしれないという直感を持った以上は、子どもを守るためにその直感に従って行動せざるをえないのかもしれない。冷静になって自分の直感の信憑性を評価している間に子どもが危険な目にあう可能性もあるのだ。

何かの直感だけをもってその人への接し方を変えるのは、私は得意ではない。例えば、何となくキモいという理由だけで人を避けたりするのは失礼だと思ってしまう。説明できるような理由なく人の扱いを変えるのはフェアではないと思ってしまうのだ。ただ、フェアであろうとした結果、これまで怖い思いも何度かしてきたので、最近は「まずは自分の心身の安全が大事。フェアネスはその次」というのを心がけている。つまり、なんかちょっとキモい*1なこの人……と思ったら、自分の身を守れる自信がない場面では逃げる。とにかく逃げる。話しかけられても無視して(申し訳ないと思いつつも)、とにかく関わらないようにする。身を守れるような場面、例えば知り合いが多くいるような場所であれば、フェアな対応を心がける。話しかけられれば無視せずきちんと答える。

話が少し変わるが、私はどちらかというと華奢な体型の人が好きだ。次点で好きなのはぽっちゃり体型の人で、いちばん苦手なのは筋肉質な人、スポーツマンタイプの人だ。これは多分、「本気で闘ったら自分が勝てそうな人」の方が安心して付き合えるからであって、「絶対に勝てそうにない人」には警戒してしまうからだと思う。

何かの格闘技を習って自分が肉体的に強くなれば、警戒せずとも安心できる範囲が広くなって、見える世界が違ってくるのかもしれないと思う。自分も同じように筋肉質になれば体格の良い人も怖くないだろうし、直感的にキモいと思った人も警戒しなくて良くなって、色んな人と話せる機会も増えるかもしれない。そういう世界を見てみたい気もするけれど、今のところは警戒心で心身を守りながら臆病に生きている。

*1:分かりやすさのために「キモい」という言葉を連呼してしまっているが、ここでは「違和感のある」「怪しい」という意味合いで使っていて、侮辱の意図はない。