気持ち悪い褒め方

10代の女の子がSNSに載せた手料理の写真に、「美味しそう!  良いお嫁さんになれますね!」というようなコメントが付いていた。たまたまそれを目にした私は、うえー、気持ち悪い、と思った。胸の奥が波立ってそわそわしてイライラするような、そんな気持ち悪さだった。

コメントをもらった女の子自身がどう思ったかは知らない。一切の気持ち悪さを感じずに、ただ褒められて嬉しい、と思ったかもしれない。私にはその子の気持ちは分からない。

ただ私はそのときに感じた強烈な気持ち悪さが忘れられない。コメント主は褒め言葉のつもりで、読んだ人がポジティブな感情になるつもりで書いたに違いないのに、こんなに気持ち悪く感じてしまうというのはショックだった。

私も誰かを褒めるとき、褒めたつもりの相手や聞いていた周囲の人が気持ち悪いと感じるような褒め方をしてしまっているかもしれない。それはとても悲しい可能性だと感じて、怖くなった。私が感じた気持ち悪さの正体を早く突き止めて、自戒に活かさなければ。そう思った。

 

「美味しそう!  良いお嫁さんになれますね!」

このコメントのどこが気持ち悪いと感じたかといえば、もちろん後半の「良いお嫁さんになれますね!」の部分だ。前半の「美味しそう!」は食べ物に対するポジティブな評価として一般的な言葉なので、この部分をポジティブに受け取らない人はまずいないだろう。

「お嫁さんになれますね!」

この部分を読んで私が感じたのは、「この子はお嫁さんになりたいのか?」「将来誰かと結婚するとして、パートナーに手料理を振る舞うことに喜びを感じるタイプなのか?」という疑問。そして、このコメントを書いた人はそんな疑問を抱くことなく、将来『お嫁さん』になって誰かに美味しい手料理を振る舞うのが当然喜ばしいことだという価値観なのだろうなあと感じて、私自身の価値観との違いに愕然とした。

繰り返しになるけれど、コメントをもらった女の子の価値観を、私は知らない。『お嫁さん』になりたいと思っている子で、「良いお嫁さんになれる」というコメントを見て喜んだかもしれない。でも、そうではないかもしれない。それは私には分からないし、コメント主にも分からないはずだと、私は思った。

自分と同じものさしを相手は持っていないかもしれないのに、その可能性を省みる様子もなく、自分のものさしに応じた評価を相手にぶつけている。私が感じた気持ち悪さの根っこは、たぶんそこにある。

 

思いつきだが、馬の話をする。

馬の持ち主と一緒に馬を見る機会があったとして、それが牧場の食用馬であれば「馬刺しにしたら美味しそうですね」と言えば褒め言葉になるかもしれない。一方、それがもし競走馬だったら、同じ言葉が大変失礼にあたるというのは想像に難くない。

受け取り手(ここでは馬の持ち主)の想定する評価軸からずれた評価は、とんでもなく失礼になりうる。

 

女の子は馬ではない。

馬は、肉の味で評価されるか足の速さで評価されるか自分では選べないが、女の子は、人間は、なりたいものを自分で選べる。選ぶ。

自分で選んだ『なりたいもの』によって、その人の評価軸、人から何で評価されたいか、は変わる。それなのに、そのはずなのに、「良いお嫁さんになれますね」は、女の子がなりたいものを自分で選ぶ意思やそれによって変わる評価軸が無視されている。まるで人間がこの馬は食用でこの馬は競走馬と決めてしまうように、「お嫁さんになりたい女の子」と決めつけて、思い込んで、その軸で評価している。

その決めつけの影には女の子の意思を軽視する高慢さがあるように思えた。私が気持ち悪いと感じたものの正体は、たぶんこの無自覚な高慢さだ。