はじめての絶望

絶望。と呼ぶのは少し違うのかもしれない。でも望みが絶たれたのは確かなので、絶望というタイトルをつけた。広大な海原を見て自分の存在のちっぽけさを思い知るという話はよく聞くが、それに似ている。私の場合、それは青い海ではなく、本の海だった。

 

物心ついた頃には図書館通いが習慣になっていた。母の策略だったのだと思う。図書館で本を借りるのは0円。子どもが本に夢中になれば、おもちゃを買い与える必要がない。私はまんまとその策略にはまり、読書好きの子どもになった。

「借りた本は自分で持ちなさい。自分で持てない量を借りては駄目」

それが母のルールだった。幼稚園児だった私は手提げ袋がぱんぱんになるまで本を詰めた。家に帰るとかじり付くように読み、たいていその日のうちに読み終えてしまった。幼稚園児は宿題もなく、暇なのだ。それに子ども向けの本は文字が大きく、本の大きさのわりにすぐ読み終わってしまう。手提げ袋いっぱい分では全然足りなかった。

 

小学校に上がった私は読書量が増えた。親に連れられなくても1人で図書館に行けるようになり、学校の図書室でも本を借りられる。お小遣いを貯めて古本を買うことも出来た。

何年生のときか忘れてしまったが、私はあるとき考えた。学校の図書室にある本は、卒業までに全部読んでしまえるかもしれない。小学校の図書室はさほど広くないので、不可能ではないように思えた。もしその目標を達成できたら、次は市立図書館の本も全部読みたいと思った。それが終わったら古本屋の本、普通の本屋さんの本、日本中の本、世界中の本、本という本を死ぬまでに全部読みたい——。

そこで私は気が付いた。私が読む本の量よりも、新しく出版される本の方が多い。つまり私は、人間は、一生かけても世の中の本を全部読み切ることは出来ない。

 

大人になったらあれもこれも出来るかもしれないと夢を抱いていた当時、「一生かけても出来ないこと」があるというのは衝撃だった。しばらくその場から動けなかったのではないかと思う。希望を打ち砕かれた瞬間——私にとっての、はじめての絶望だった。

絶望の底にはどこか冷静な自分がいて、「少し考えれば分かることなのに、なんでもっと早く気付かなかったんだろう?」と考えていた。周りの大人たちはずっと前から知っていたに違いなかった。一生かけても全部の本を読み切れない。読みたくても読めない本があるまま死んでしまうのだという、その悲しい事実を受け入れて、私も生きていかねばならない。

私は本が好きだった。死ぬまで読む本が尽きないというのは、きっと幸せなことだ。自分にそう言い聞かせ、10歳くらいだった私は絶望から立ち直ったのだった。