アマゾンプライムで配信されている「ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪」について、ここ数日でさまざまな議論を目にしてきた。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」では肌の色の白いエルフしかいなかったのに、「力の指輪」では黒人の演じる肌の色の濃いエルフが登場したことが、議論を呼んでいるらしかった。
私は「ロード・オブ・ザ・リング」というコンテンツについて、原作も読んでいなければ、映画も観ていない(正確には、観たことはあるはずだがあまり記憶に残っていない。当時、あまり英語が聴き取れないのに背伸びして英語で観ようとしたせいだろうか)。
よく知らない作品ということもあり議論の背景を正確に把握しているわけではないが、ある登場人物を黒人が演じていることが議論の契機になっているという点において人種差別の気配を感じ、もし差別的な批判が横行しているのであればそれは良くないことだと心をひりつかせながら、息を詰めるようにしてタイムラインに流れてくるさまざまな声を目で追った。
そのなかでしばしば目にとまったのが、
「自分は差別はしていない。ただ原作(あるいは、多くのファンが築いてきたイメージ)と異なる表現がされていることが気になり、それを批判しているだけだ」
という主張である。
それに対する反論も流れてきた。いやいや原作(トールキンの『指輪物語』)にエルフはみな肌が白いとは明記されていないといったものや、『指輪物語』は古典になりかけている作品であり、古典というものは長い年月のなかでさまざまな設定の改変を受けるもの、古典とはそういうものなのだという論もあった。
繰り返しになるが、私は『指輪物語』に詳しくなく、古典作品とはどのようなものかについても明るくない。したがって、これらの話の妥当性を判断することはできないが、こうした視点から語ることもできるのだなと、大変に興味深かった。
と同時に、私にはもとの主張の根底に流れていると思われる「自分のイメージと食い違う表現を目にしたときには批判したくなる。それの何が悪いのか」という感情に思いあたる節があった。『指輪物語』のことはさっぱりわからないが、「力の指輪」を批判する声のなかに、かつて自分の好きな漫画がアニメ化したときに「声優の声が思っていたのと違う」と友人にブーブー文句を言った自分の声と、重なる響きがあるのを感じていた。
「原作改変かどうか」「原作を改変しているとして、それが良くないことかどうか」は置いておいて、とにかく自分が抱いていたイメージとは違っている、その一点において映像作品を批判したくなる気持ち。
そこには一定の共感を抱きつつも、今回の「力の指輪」に対する批判はやはりどれも人種差別の観点からフェアじゃないようにも思い、それはなぜなのか、ここ数日考え続けてきた。
前置きが長くなったが、「力の指輪」に対する批判を見ていて感じたアンフェアさについて、自分なりの考えをまとめておこうと思う。
別の感情にまぎれた差別感情
まず、「今の世の中に人種差別はあるか」と問われれば、私は「ある」と答える。
映像作品の批判においても、批判を受けやすい人種と、批判を受けにくい人種とがいる。その全体としての傾向の差は、個々の人間が胸のうちに抱く差別感情が少しずつ作用して生み出したもので、結果として構造的な人種差別になっていると思う。
差別をする人は、「自分は差別をしている」とは言わない。「これは差別ではない」と前置きしたうえで、差別対象となる性質以外のところからそれらしい理由を挙げて、差別的な言動をする。
そして厄介なのは、その「それらしい理由」のほうも本心であるということが、往々にしてありうる点である。つまり、100%混じり気のない差別感情を覆い隠すために本心では思ってもいない理由をでっちあげているということは多くはなくて、10%の差別感情を90%の別の感情でくるんで、これは差別ではないと本人も本気で信じ込んだうえで差別しているような人が多いと思うのだ。
個人のなかではたった10%の差別感情でも、多くの人がそうした差別感情のかけらを隠しもちながら行動すると、社会全体としてその影響はちりが積もるように大きくなり、特定の被差別属性をもつ人たちがじわじわと抑圧される結果になる。構造的差別とはそういうものだと理解している。
例示のために10%と書いたが、差別感情の割合は人によってさまざまだろう。これを書いている私自身、差別とは無縁の0%、まったくのクリーンですとはとても言い切れない。差別感情(自分と異なる属性をもつ人たちに対する忌避感とも言える)は、多かれ少なかれ、誰にでもあるものだと思う。
重要なのは、差別感情を行動に反映させないことだ。差別感情は誰にでもあるが、それを行動に出した途端、私は差別者になる。そうならないためには、「この行動は差別にあたらないか」「直接的な差別でないにしても、差別感情が一切作用していないと言い切れるだろうか」と自問するしかない。そして、もし自分の取ろうとしている行動や発言しようとしている内容に差別感情が影響していることに気づいたら、その影響を意識的に取り除き、行動や発言を見直さなければならない。
それはなかなかにむずかしい。差別感情は何か別の感情の裏側にぴったり張り付くように隠れていることがあり、その存在に気づくことも、引き剥がすことも一筋縄ではいかない。別の感情(たとえば特定の個人に対する嫌悪や憎しみなど)と混ざってしまって、どこからどこまで差別感情やらわからなくなっていることもある。
それでも、むずかしいからといって諦めず、みずからの言動に差別感情をまぎれこませないように日々努力することは、差別のない社会を目指すにあたって必要なことだと思う。
先に挙げた「原作にはエルフの肌の色がみな薄いとははっきり書いていない」「原作改変は古典作品としては普通のこと」という論は、原作改変を理由に「力の指輪」を批判する声にたいして、それは批判の理由にならないと断じている。批判には別の理由、差別感情が隠れているのではという疑念を投げかけていると、私は受け取った。
実際、「力の指輪」を批判する声のなかには、別の理由の盾のなかに差別感情が見え隠れしているもの、差別ではないと言いながらそれは明らかに差別だろうと思えるものがあった。
一方で、差別感情が見えてこない批判もいくつかあった。その人たちの主張は、「自分はすべての原作改変(もしくは自分のイメージとの相違)に対して批判してきた。人種とは関係ない。よって人種差別ではない」というものだった。
たしかに、人種と関係なくすべての場合において一律に批判しているのであれば、その人の批判は人種差別ではないと言えそうだ。けれど私は、そうした「差別感情が1ミリもない批判」も、構造的差別の観点においてフェアではないように感じた。
自分のなかでフェアであれば、それはフェアな意見なのか
先にも書いたとおり、世の中には人種差別が「ある」。そして差別は、差別者が被差別者を直接攻撃する以外にも、個人がそれぞれ胸のうちにいだく差別感情のかけらが少しずつ行動に影響することで、構造的差別となって被差別者をじわじわと抑圧する形でもあらわれてくる。
差別のない社会が平らな地面だとするならば、差別のある社会では地面が傾いていて、被差別属性をもつ人にとってその傾きが不利にはたらく。直接的には誰かに押されたり足を引っ掛けられたりしなくとも、その傾きにより転んでしまったり、進みにくかったりする。平地であればひょいと飛び越えられるような障害物も、斜面だと同じように飛び越えるのが途端に困難になる。それが構造的差別だと思う。
その傾きを生み出しているのは、差別感情をもつ人が自覚的にであれ無自覚にであれ、少しずつ不平等に注いできた砂である。ひとつぶひとつぶは小さな砂でも、積み上がると結構な傾きになる。
差別に反対する人がとるべき行動として、まず重要なのは「追加の不平等な砂を注がないようにすること」である。さらなる傾きを生まないよう、注意しなければならない。次に、「不平等な砂を注いでいる人がいたら、それは差別であると指摘すること」も意味があるだろう。
さて、ここまで書いてあまり上手い喩えではない気がしてきたが、「不平等な砂」とは「不平等に撒かれた砂」という意味だ。つまり、砂自体には平等も不平等もない。その撒かれかたに偏りがあり、不平等を生むことを指している。
たとえば、怪しい人に警察が事情聴取をするのは、それだけでは差別ではない。しかし、特定の人種にだけ頻繁に事情聴取をするのであれば、それは構造的差別となりうる。
同じように、人種を問わずすべての人を平等に批判するのであれば、その批判行為自体は差別にはあたらないだろう。
だが、考えてみてほしい。すでに地面が傾いている状況で「平等に」砂を撒いたとして、地面の傾きは維持される。「追加の不平等な砂を注がないようにすること」だけでは、構造的差別はなくならない。
平等に注がれた砂も不平等に注がれた砂も、砂は砂、受け手にとっては同じように作用するのではないだろうか。たとえ差別感情の一切ないまっとうな批判、フェアな批判であったとしても、差別がすでにある社会においては、その批判のもたらす作用はアンフェアなのでは? 発言者の内心のフェアさは、発言が口から出て以降はあまり関係がなくなり、構造的差別により特定属性をもつ人に集中的に投げかけられた批判のうちのひとつとして不平等に撒かれた砂つぶにまぎれ、構造的差別の一端を担ってしまうのでは?
これが、「力の指輪」に対する批判を見ていて、私の感じたアンフェアさである。
「では、被差別属性をもつ人に関する批判は一切してはいけないというのか」
と言われそうだが、私が言いたいのはそういうことではない。
フェアな批判のつもりでも、作用としてはアンフェアになりうるのではないか、その可能性を提示したにすぎない。そのアンフェアさと批判の意義とを天秤にかけ、どちらを選ぶかは、(その批判自体が差別にあたらない限りは)個人の判断に任されている。
構造的差別がすでにそこにある以上、どんな批判も差別の文脈からは逃れられないように思う。その上で、何をどのように批判するのか、あるいは批判しないのかは、慎重に判断していきたい。
今回の「力の指輪」の議論を見ていて、あらためてそう思った。