差別のあるこの社会で「フェア」であること

 アマゾンプライムで配信されている「ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪」について、ここ数日でさまざまな議論を目にしてきた。

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 映画「ロード・オブ・ザ・リング」では肌の色の白いエルフしかいなかったのに、「力の指輪」では黒人の演じる肌の色の濃いエルフが登場したことが、議論を呼んでいるらしかった。

 私は「ロード・オブ・ザ・リング」というコンテンツについて、原作も読んでいなければ、映画も観ていない(正確には、観たことはあるはずだがあまり記憶に残っていない。当時、あまり英語が聴き取れないのに背伸びして英語で観ようとしたせいだろうか)。

 よく知らない作品ということもあり議論の背景を正確に把握しているわけではないが、ある登場人物を黒人が演じていることが議論の契機になっているという点において人種差別の気配を感じ、もし差別的な批判が横行しているのであればそれは良くないことだと心をひりつかせながら、息を詰めるようにしてタイムラインに流れてくるさまざまな声を目で追った。

 

 そのなかでしばしば目にとまったのが、

「自分は差別はしていない。ただ原作(あるいは、多くのファンが築いてきたイメージ)と異なる表現がされていることが気になり、それを批判しているだけだ」

 という主張である。

 

 それに対する反論も流れてきた。いやいや原作(トールキンの『指輪物語』)にエルフはみな肌が白いとは明記されていないといったものや、『指輪物語』は古典になりかけている作品であり、古典というものは長い年月のなかでさまざまな設定の改変を受けるもの、古典とはそういうものなのだという論もあった。

 

 繰り返しになるが、私は『指輪物語』に詳しくなく、古典作品とはどのようなものかについても明るくない。したがって、これらの話の妥当性を判断することはできないが、こうした視点から語ることもできるのだなと、大変に興味深かった。

 と同時に、私にはもとの主張の根底に流れていると思われる「自分のイメージと食い違う表現を目にしたときには批判したくなる。それの何が悪いのか」という感情に思いあたる節があった。『指輪物語』のことはさっぱりわからないが、「力の指輪」を批判する声のなかに、かつて自分の好きな漫画がアニメ化したときに「声優の声が思っていたのと違う」と友人にブーブー文句を言った自分の声と、重なる響きがあるのを感じていた。

 

「原作改変かどうか」「原作を改変しているとして、それが良くないことかどうか」は置いておいて、とにかく自分が抱いていたイメージとは違っている、その一点において映像作品を批判したくなる気持ち。

 そこには一定の共感を抱きつつも、今回の「力の指輪」に対する批判はやはりどれも人種差別の観点からフェアじゃないようにも思い、それはなぜなのか、ここ数日考え続けてきた。

 前置きが長くなったが、「力の指輪」に対する批判を見ていて感じたアンフェアさについて、自分なりの考えをまとめておこうと思う。

 

別の感情にまぎれた差別感情

 まず、「今の世の中に人種差別はあるか」と問われれば、私は「ある」と答える。

 映像作品の批判においても、批判を受けやすい人種と、批判を受けにくい人種とがいる。その全体としての傾向の差は、個々の人間が胸のうちに抱く差別感情が少しずつ作用して生み出したもので、結果として構造的な人種差別になっていると思う。

 

 差別をする人は、「自分は差別をしている」とは言わない。「これは差別ではない」と前置きしたうえで、差別対象となる性質以外のところからそれらしい理由を挙げて、差別的な言動をする。

 そして厄介なのは、その「それらしい理由」のほうも本心であるということが、往々にしてありうる点である。つまり、100%混じり気のない差別感情を覆い隠すために本心では思ってもいない理由をでっちあげているということは多くはなくて、10%の差別感情を90%の別の感情でくるんで、これは差別ではないと本人も本気で信じ込んだうえで差別しているような人が多いと思うのだ。

 個人のなかではたった10%の差別感情でも、多くの人がそうした差別感情のかけらを隠しもちながら行動すると、社会全体としてその影響はちりが積もるように大きくなり、特定の被差別属性をもつ人たちがじわじわと抑圧される結果になる。構造的差別とはそういうものだと理解している。

 

 例示のために10%と書いたが、差別感情の割合は人によってさまざまだろう。これを書いている私自身、差別とは無縁の0%、まったくのクリーンですとはとても言い切れない。差別感情(自分と異なる属性をもつ人たちに対する忌避感とも言える)は、多かれ少なかれ、誰にでもあるものだと思う。

 重要なのは、差別感情を行動に反映させないことだ。差別感情は誰にでもあるが、それを行動に出した途端、私は差別者になる。そうならないためには、「この行動は差別にあたらないか」「直接的な差別でないにしても、差別感情が一切作用していないと言い切れるだろうか」と自問するしかない。そして、もし自分の取ろうとしている行動や発言しようとしている内容に差別感情が影響していることに気づいたら、その影響を意識的に取り除き、行動や発言を見直さなければならない。

 

 それはなかなかにむずかしい。差別感情は何か別の感情の裏側にぴったり張り付くように隠れていることがあり、その存在に気づくことも、引き剥がすことも一筋縄ではいかない。別の感情(たとえば特定の個人に対する嫌悪や憎しみなど)と混ざってしまって、どこからどこまで差別感情やらわからなくなっていることもある。

 それでも、むずかしいからといって諦めず、みずからの言動に差別感情をまぎれこませないように日々努力することは、差別のない社会を目指すにあたって必要なことだと思う。

 

 先に挙げた「原作にはエルフの肌の色がみな薄いとははっきり書いていない」「原作改変は古典作品としては普通のこと」という論は、原作改変を理由に「力の指輪」を批判する声にたいして、それは批判の理由にならないと断じている。批判には別の理由、差別感情が隠れているのではという疑念を投げかけていると、私は受け取った。

 実際、「力の指輪」を批判する声のなかには、別の理由の盾のなかに差別感情が見え隠れしているもの、差別ではないと言いながらそれは明らかに差別だろうと思えるものがあった。

 

 一方で、差別感情が見えてこない批判もいくつかあった。その人たちの主張は、「自分はすべての原作改変(もしくは自分のイメージとの相違)に対して批判してきた。人種とは関係ない。よって人種差別ではない」というものだった。

 たしかに、人種と関係なくすべての場合において一律に批判しているのであれば、その人の批判は人種差別ではないと言えそうだ。けれど私は、そうした「差別感情が1ミリもない批判」も、構造的差別の観点においてフェアではないように感じた。

 

自分のなかでフェアであれば、それはフェアな意見なのか

 先にも書いたとおり、世の中には人種差別が「ある」。そして差別は、差別者が被差別者を直接攻撃する以外にも、個人がそれぞれ胸のうちにいだく差別感情のかけらが少しずつ行動に影響することで、構造的差別となって被差別者をじわじわと抑圧する形でもあらわれてくる。

 差別のない社会が平らな地面だとするならば、差別のある社会では地面が傾いていて、被差別属性をもつ人にとってその傾きが不利にはたらく。直接的には誰かに押されたり足を引っ掛けられたりしなくとも、その傾きにより転んでしまったり、進みにくかったりする。平地であればひょいと飛び越えられるような障害物も、斜面だと同じように飛び越えるのが途端に困難になる。それが構造的差別だと思う。

 

 その傾きを生み出しているのは、差別感情をもつ人が自覚的にであれ無自覚にであれ、少しずつ不平等に注いできた砂である。ひとつぶひとつぶは小さな砂でも、積み上がると結構な傾きになる。

 差別に反対する人がとるべき行動として、まず重要なのは「追加の不平等な砂を注がないようにすること」である。さらなる傾きを生まないよう、注意しなければならない。次に、「不平等な砂を注いでいる人がいたら、それは差別であると指摘すること」も意味があるだろう。

 

 さて、ここまで書いてあまり上手い喩えではない気がしてきたが、「不平等な砂」とは「不平等に撒かれた砂」という意味だ。つまり、砂自体には平等も不平等もない。その撒かれかたに偏りがあり、不平等を生むことを指している。

 たとえば、怪しい人に警察が事情聴取をするのは、それだけでは差別ではない。しかし、特定の人種にだけ頻繁に事情聴取をするのであれば、それは構造的差別となりうる。

 同じように、人種を問わずすべての人を平等に批判するのであれば、その批判行為自体は差別にはあたらないだろう。

 

 だが、考えてみてほしい。すでに地面が傾いている状況で「平等に」砂を撒いたとして、地面の傾きは維持される。「追加の不平等な砂を注がないようにすること」だけでは、構造的差別はなくならない。

 

 平等に注がれた砂も不平等に注がれた砂も、砂は砂、受け手にとっては同じように作用するのではないだろうか。たとえ差別感情の一切ないまっとうな批判、フェアな批判であったとしても、差別がすでにある社会においては、その批判のもたらす作用はアンフェアなのでは? 発言者の内心のフェアさは、発言が口から出て以降はあまり関係がなくなり、構造的差別により特定属性をもつ人に集中的に投げかけられた批判のうちのひとつとして不平等に撒かれた砂つぶにまぎれ、構造的差別の一端を担ってしまうのでは?

 これが、「力の指輪」に対する批判を見ていて、私の感じたアンフェアさである。

 

「では、被差別属性をもつ人に関する批判は一切してはいけないというのか」

 と言われそうだが、私が言いたいのはそういうことではない。

 フェアな批判のつもりでも、作用としてはアンフェアになりうるのではないか、その可能性を提示したにすぎない。そのアンフェアさと批判の意義とを天秤にかけ、どちらを選ぶかは、(その批判自体が差別にあたらない限りは)個人の判断に任されている。

 

 構造的差別がすでにそこにある以上、どんな批判も差別の文脈からは逃れられないように思う。その上で、何をどのように批判するのか、あるいは批判しないのかは、慎重に判断していきたい。

 今回の「力の指輪」の議論を見ていて、あらためてそう思った。

アイドルオタクのオタク論【4】アイドルが私にくれたもの

 2021年の2月にオタク論の【1】を公開し、これからひと月に一本くらいのペースで書くぞと張り切っていたはずなのに、気づけばもう2022年の7月だ。更新を怠っていたあいだに、私の推しはアイドルグループを卒業した。

 私はもともとアイドルのオタクではなかった。推しがたまたまアイドルで、推しを追いかけているうちに気づけばアイドルオタクになっていた、というのが私の実感だ。いつまで「ファン」でいつから「オタク」になったのか*1、振り返ってみても線をひくのはむずかしい。はじめて同じCDの二枚目を買った、あの日だろうか。それとも、ライブのない特典会だけのイベントにはじめて行った、あの日だろうか。

 推しがアイドルでなくなった(と、本人がSNSに書いていた)いま、私はもうアイドルオタクではないのかもしれない。

 

 いつか推しがまたアイドルをはじめ、私もアイドルオタクにもどる日が来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。

 未来のことはわからない。不安も期待もある。

 たしかなのは、推しがアイドルとしてそこにいて、何年ものあいだ私の生活の軸だったということ。そのおかげで私は生きてこられたということ。

 アイドルが私にくれたものは何だったのか。自分なりに言葉にしておきたいと考えて、いまこの文章を書いている。

 

1. 家から外に出ること

 家から外に出るのには勇気がいる。家の外には知らない人がたくさんいて、暑かったり寒かったりするかもしれなくて、楽しくすごせるとはかぎらない。

 家のなかは快適だし安全だ。いろんなメディアがあって、退屈することもない。でも、ずっとこもっていると空気が停滞し、よどんでいく感じもする。

 外に出たい気持ちと、やっぱりやめておこうという気持ち。その天秤を「外に出る」のほうに傾けてくれたのが、私にとってはアイドルだった。

 そしていつでもその選択を「正解」にしてくれた。「べつに来なくてよかったな」と思った現場はひとつもない。

 アイドルは、家にこもりがちな私の生活に風穴をあけてくれた。

 

2. 自分の五感を使うこと

 かつての私は読んだ本の数がしあわせに比例すると大まじめに考えていた。本のなかにはだれかの人生がある。文字を追うことでいくつもの人生を体験できれば、私の人生はもう十分以上だと思っていた。

 夏。私はアイドルの野外ライブ会場にいた。大雨がふり、ずぶ濡れになったが、開演前にはやんでいた。暑さで肌のうえの水分が乾いていく。ステージ上の推しは夏の日差しのなかでいつも以上にくっきりと輝き、歌声は高い青空にどこまでも響いた。終演のころには心も体も熱いもので満たされ、ほてった身体に夜風が心地よかった。

 その日から、夏は特別な季節になった。こんなライブは夏にしか体験できないと思ったからだ。と同時に、あれ、と思った。いままでの夏、何してたっけ。物語のなかの夏はいくつも知っている。でも、私自身の夏の記憶は、一体どこに……。

 夏がこんなに楽しくて、特別な季節なのだとしたら。自分の五感を使って体験しないと「もったいない」。そんなふうに思うことができたのは、生まれてはじめてだった。

 

3. 存在と労働の意義

 情緒が不安定なので、すぐに病む。そのたびに問わずにいられないのが、自分の存在意義だ。

 なんで生まれてきて「しまった」んだろう。ここにいるのは自分じゃないほうがよかったのではないか。そんなこと考えても仕方がない。でも、なにか「理由」がほしくなる。

 推しのライブを観るとそれが一挙に解決する。「このために生まれてきたんだ」と思えるからだ。アイドルはほかにもたくさんいるけれど、私が私だから、この現場を、この推しをえらんだ。それは絶対に疑いようもなく「正解」だ。そう思わせてくれるものを、かならず見せてくれた。いわゆる「優勝」というやつだ。推しはいつでも私を「優勝」させてくれた。

 そして、生きていくうえで欠かせない労働。自分が生きることの意義を見失うと、当然、労働の意義もわからなくなる。生きていくのに必要なぶん以上の労働、つまり残業をもとめられると、「いま、何のために働いているんだっけ」とますます迷宮に迷い込む。

 アイドルオタクは無限にお金がかかる。裏をかえせば、いくらでもお金をわかりやすい「価値」に変えられるということだ。はじめて同じCDの二枚目を買ったときは、同じ商品をいくつも購入するシステムが救いになるとは思ってもみなかった。

 でも、たしかに私は救われた。労働の虚しさが、お金という仲介を経て、推しとの思い出にかわっていく。これが意味だ。これが価値だ。いささか依存的で不健全な価値観かもしれないが、いつのまにか追い詰められていたあの頃の私には、その「答え」が必要だったと思う*2

 

4. 次の目的地

 活動がさかんなアイドルを追いかけるのには、無限にページがふえていくスタンプラリーに参加するような楽しさがあった。スタンプ(=行った現場)が増えていくことの達成感と、ふりかえったときの充実感。次の現場はどこだろうと待つ時間も楽しかったし、これからもスタンプが増えていくんだと思うと胸がおどった。

 次の目的地があって、行きさえすれば絶対に楽しいとわかっていて、それまで頑張って生き延びようと思える。それは心理的に大きな支えになった。落ち込んでいるとき、やる気が出ないようなときにも、真っ暗な海のなかでも導いてくれる灯台のように、「あそこに行けば大丈夫だ」と思うことができた。

 楽しい時間がおわってしまうのは、いつも寂しい。反動で落ちこんでしまうこともある(「ロス」というやつだ)。でも、「また次がある」と思うと、前向きになれた。

 じゃあまた、次の現場で。そう言ってほかのオタクたちと別れていたあの年月の、なんと貴重だったことだろう。

 推しがアイドルでなくなったいま、次の現場は約束されていない。でも、私はもう大人だ。次の目的地は自分で決めればいい。そうやって生きていくなかで、チェックポイントのように推し*3の姿を拝むことができればしあわせだ。

 いまそう思えるのも、推しがアイドルとして長い時間、何度も何度も「次」をくれたからにほかならない。

 

5. 「好き」のフィルター

 推しがいると、あらゆるものに「好き」のフィルターがかかって見える。

 会社から出たときの空が「推し色」だっただけで今日はいい日だと思えたり、飲食店で推しの名前がはいったメニューを見かけただけで心がときめいたりする。

 それはたぶん、作用としては恋愛に似ている。恋愛と異なるのは、アイドルがアイドルであるかぎり、オタクがオタクとして節度をもって推しているかぎり、いつまでもどこまでも「好き」でいていい(と、アイドル自身が言ってくれる)ことだと思う。

 好きという気持ちを、声を大にして叫ぶことさえできるのがアイドル現場だ*4。こんなこと、日常ではありえない。

 好きな気持ちを日々高め、日常にフィルターをかけて生きていく。それがアイドルオタクの営みなのだろうと思う。

 推しがアイドルでなくなったいまも、私のフィルターは生きている。それを持ち続けていることをこれまでのようには大っぴらにしないほうがいいのだろうなと思いつつ(だって推しはもうアイドルではないのだ。一般人でもないけれど)、これからも人知れず、そのフィルターをとおして世界を見る。そうすれば、暗い世のなかもぐんと明るく見える。これは私のお守りだ。

 

 思いつくかぎりを書いたつもりだけれど、こんなのではぜんぜん足りないような気もする。そのくらい、アイドルが私にくれたものは大きかった。

 アイドルになってくれて、アイドルでいてくれてありがとう。と、いちオタクにすぎない私がお礼を言うのも変な話だけれど。

 私の推しアイドルだった人への感謝と、すべてのアイドルさんへの敬意をこめて。

 アイドルがくれたもののおかげで、今私は生きています。

*1:「ファン」と「オタク」の定義はいろいろあると思うが、私のなかでは「オタク」のほうが好きな気持ちが熟成(発酵?)しているかんじがする。

*2:いまは転職したので、労働に関して当時ほど病んではいない。

*3:アイドルではなくなったが、芸能人ではある。

*4:新型コロナの流行以前のアイドル現場、と書いたほうが正確かもしれない。

アイドルオタクのオタク論【3】いつかは卒業するけれど

 

※今回は自分のことばかり書いています。

 

 アイドルオタクをしていて非オタから受ける質問のひとつに、「(推しが)卒業したらどうするの?」がある。

 正直、どんな答えを期待されているのか分からない。「三日三晩寝込む」とか「一週間仕事を休む」とかだろうか。
 そんなの、そのときになってみないと分からない。悲しいのか、寂しいのか、その両方か。それとも虚しいのか。
 それに、どうするも何も、オタクにできることはない。ただ事実を受けとめるのみ。どんなに時間がかかろうが、いつかは推しのいない日々と向き合わねばならない。

 

 私はアイドルオタク歴は浅いが、オタク歴はそこそこある(と思う)。そのなかで、とある推しの喪失を経験している。しかも、推しが望まないかたちで活動の幕が閉じた。

 あのときの息がとまるような感覚は忘れられない。推しのことを笑って話せるようになるまで、どれくらいの歳月を要しただろう。

 

 だが、その経験があるからこそいえるのは、推しを失うことがあっても、推していた時間は消えないということだ。

 当然、グッズは残る。写真も、思い出も残る。SNS時代なので、オタク間の交友関係も残すことができる。オタ活のなかで覚えたあの振り付けも、私は今でも踊れる。

 楽しかったあの日々は、なかったことにはならない。私が覚えているかぎり。

 そして、後悔しないためには、できるかぎり全力で推すことだ。推したぶんだけ、ちゃんとリターンがある。それは、充実したかけがえのない日々の思い出だ。

 

 思うに、アイドルを推すことはペットを飼うことに似ている。

 アイドルはいつか活動を終え、舞台から去ってしまう。ペットはいつか死んでしまう。期限つきで注ぐ愛。

 そのときが来れば、きっと死ぬほど悲しいし寂しい。それでも、出逢わなければよかった、愛さなければよかったとは、けっして思わない。

 できれば長く続いてほしいとは思う。けれど永遠ではないことは、はじめからわかっている。そのときの痛みを覚悟で推している。そのときが来たときに、もっとちゃんと推しておけばよかったと後悔したくないから、推しているともいえる。

 

 推しはいつかアイドルを卒業する。オタクもいつか、オタクを卒業するのだろうか。

 推しとともに卒業するひともいるだろう。結婚などがきっかけでオタクを卒業するという話もきく。

 だが、私は自分がオタクでなくなる日が来るとは思えない。オタク以外の生き方をしらないのだ。

 小学生のころからオタクだった。オタクでなかった頃のことは、もうあまり覚えていない。きっと私にとってオタクというものは骨の髄まで染みついていて、もし力づくで引き剥がそうとすれば、血肉が半分くらい失われる。そして抜け殻のように生きていくことになる。

 なので私は、いつか推しが卒業しても、きっと新しい推しを見つけてオタクをしていると思う。

 

 けれどおそらく、その新しい推しはアイドルではない。

 推しの卒業後にほかのアイドルさんを見ても、きっと推しの不在ばかりを透かし見てしまうだろうから、というのがひとつ。

 もうひとつには、私にとっての推しは「この世界でいちばん」だと思っている存在だからだ。いちばんは、ひとりだけだと思う。もしほかに推しが見つかるとすれば、私の場合、別の世界になるはずだ。

 二次元キャラかもしれないし、VTuber かもしれない。推し馬ができて競馬にはまるかもしれない。まだ知らない世界のだれかや何かを好きになるかもしれない。

 いつもそうやって、推しに世界を広げてもらいながら生きてきた。

 

 なお、もしいまの推しがアイドル卒業後に別の活動をするようになり、推すことが許されるのであれば推し続けたいと考えている。そうやって、いまの推しが世界を広げてくれるのも大歓迎だ。

 いつか活動をやめる日がきても、推しが見せてくれた世界は残るのだ。そう思って、私は推している。

アイドルオタクのオタク論【2】アイドルオタクの嫉妬心

 アイドルオタクをしていると、他のオタクに嫉妬心をいだくことがある。

 他のオタクへのレスを目撃した、特典会で自分のときよりも対応がいい気がする、などがきっかけである。

 嫉妬心とは厄介なもので、いちど火がつくと消し去るのがむずかしい。めらめらと燃え広がって怒りに転じたり、自分に瑕疵があるのではと、自己嫌悪におちいったりする。

 楽しいはずのオタ活が楽しめなくなってしまう。それも、自分の感情のせいで。こんなに悲しいことがあるだろうか。

 

 だが、嫉妬はオタクのすぐそばにある。嫉妬は愛から生まれるからだ。推しを愛しているからこそ、他の誰かに嫉妬してしまう。

 アイドルオタクを長く楽しく続けるには、みずからの嫉妬心と上手く付きあっていく必要がある。

 

 そもそも、嫉妬という感情は何のためにあるのだろう。

 勝手な持論だが、自分の「欲」に気づくためではないかと思う。

 人は、自分の欲に気づかないことがある。あるいは、気づかないふりをすることがある。自分はこれが欲しい、と素直に認めることが、様々な理由でむずかしかったりする。欲しいという気持ちを自分で隠してしまう。

 嫉妬心は、そうした欲をあらわにする。自分もあんなレスが欲しい、あんな対応をされてみたいと、己の気持ちが明確になる。

 欲は、あらゆる活動の原動力だ。オタクがオタクを続けるためにも、必要不可欠である。自分の欲をありありと認識させてくれる嫉妬心は、悪いだけのものとも言い切れない。

 

 問題は、嫉妬心をどう扱うか、である。そこには、オタクによって様々な工夫があるように思う。

 嫉妬心をどう扱うかがオタクとしての姿勢を決める、と言っても過言ではないかもしれない。

 

 たとえば、「推し被り敵視」という言葉がある。嫉妬の対象となりうる推し被りを「敵視します」と、あらかじめ表明しておく。こうしておけば嫉妬をいだく機会を減らすことができるし、いざ嫉妬心に火がついたときには、堂々とその相手を敵視すればよい。自分の感情にもっとも素直な姿勢だ。

 仲のよいオタクと推されエピソードのマウントを取り合う、いわばプロレスのような形で嫉妬心を発散させているタイプも見受けられる。多少の打たれ強さが必要だが、健全な発散方法であるように思う。

 妄想で嫉妬心をまぎらわす手もある。現実はかならずしも思い通りにならないが、妄想は自由だ。いわゆる「後方彼氏面」というのは、この「妄想型」の一種だと思う。彼氏気分に浸ることで、嫉妬を回避できる。

 

 推しへの信仰心を深めることにより、嫉妬をものともしない強靭な精神を築くことができるかもしれない。

 森博嗣の小説『四季 秋』(四季シリーズの三作目)に、太陽と扇風機のたとえ話が出てくる。森博嗣作品のなかでも私が特に好きな登場人物、紅子のセリフということもあり、深く印象に残っている一節だ。

 あなたが好きになった人は、扇風機か、それとも太陽か? と、紅子は問う。

 曰く、扇風機ならば風は前にしか来ないが、太陽の光は全方位に届く。メキシコが晴れているからといって、日本が損をするわけではない。

 つまり(ここからは私の解釈だが)、あなたの推しが太陽ならば、他の誰かにレスをしたからといって、自分が受け取るものが減るわけではない。もし推しが扇風機ならば、こちらに首を振ってもらわなければ、風は届かないけれど……。

 私の推しは太陽だ、と私は思う。

 

 あるいは、「恩返し理論」で推していれば、嫉妬とは無縁でいられるかもしれない。「恩返し理論」という名は、いま私が適当に付けた。推しからはすでにたくさんのしあわせをもらったので、もうこれ以上は求めない。これまでにもらってきた恩を、これからはできるだけ返していこう。という考えにもとづき、推すことである。

 とはいえ、推しているかぎりは追加でしあわせをもらえる。推しからもらったしあわせ(もしくは、思い出と言い換えてもよい)の貯金は、増えていく一方である。この貯金が増えれば増えるほど、余程のことでもなければ嫉妬心が燃え上がることはなくなるだろう。

 同じ推しを長期で推すなら、このスタンスはかなり効果がありそうに思える。

 

世界に一つだけの花理論」というのも考えられそうだ。これもいま私が適当に名付けた。ナンバーワンにならなくてもいい、どのオタクも特別なオンリーワン……という姿勢である。

 どのオタクも特別だと考えるのに抵抗があるなら、こう考えてもいい。どのオタクから見えるどの瞬間、どの角度の推しも特別だ、と。

 推しからのレスは特別かもしれないが、レスがなくたって推しは特別だ。どんなときだって推しはオンリーワンでありナンバーワンなのだ。

 

 と、ここまで、アイドルオタクがみずからの嫉妬心にどう対処しているのか、どう対処できそうかを考えてみた。

 嫉妬心を剥き出しにする姿勢から、レスが来なくても推しは最高……と考えてぶれない精神を保つ哲学的な(?)姿勢まで、さまざまな推し方がある。

 

 思えば、嫉妬を感じられることは贅沢でもある。愛する推しがこの世界に実存するからこそ、嫉妬をいだく機会があるのだ。

 推しが二次元だった中学生の頃は、嫉妬心とは無縁だった。そのかわり、妄想のなかでしか推しに会えなかった……。

 どちらが良いというわけでもないが、アイドルオタクにはアイドルオタクにしか味わえないしあわせがある。嫉妬心なんて乗り越えて、推していこうではないか。

 

———

 

 【1】を書いてから約半年も経ってしまった。筆不精すぎる……。

 続きを書く気はあるので、【3】はまた、そのうち。

アイドルオタクのオタク論【1】オタクにとってのオタ活

 私はアイドルオタクであることを特に隠していないので、職場などで「明日はライブなんですよ〜」と言えば、「いいねー。楽しんできてね!」などと言ってもらえる。そう言ってもらえるのはありがたいし、嬉しい。

 ただ、ときおり引っかかることがある。オタクである私にとっての「ライブ」と、その人(オタクではない)が思っている「ライブ」は、ちょっと扱いが異なるのでは? ずれた認識のまま会話しているのでは?、と。

 

 ライブをオタ活(=オタク活動)に置き換えて、もうすこし一般化して考えてみる。

 

 オタクでない、つまりオタ活をしない人の生活は、たぶんこんな感じだと思う。

 

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 生活に必須の事柄を土台として、その上に「趣味・娯楽」があり、いちばん上に「たまの贅沢」がある——これがおそらく、オタクでない人の一般的な生活だと思う。

 

 で、オタクでない人が想像するオタクの生活は、たぶん次のような感じだと思うのだ。

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  仕事と生活以外がすべてオタ活である。趣味もたまの贅沢も、すべて推しに捧げる——これが、オタクでない人が考えるオタク像のように思う。

 だが、実際のところはどうだろう? 私以外のオタクに聞いてみたいのだが、あなたの生活はこんな感じですか?

 

 オタクとひとくちに言っても、何のオタクか、在宅派か現場派かによってかなり生態が異なるだろうし、私と同じ現場派で同じアイドルグループのオタク、仮に推しメンまで同じであったとしても、推しかたのスタンスは人それぞれ。日々の生活も人それぞれだろう。

 なので、上図に示したような「生活基盤以外、全捧げ型」のオタクがいないとは言わない。言わないが……。

 少なくとも私自身やまわりのオタクたちの生態とは、少し、いやかなりの乖離を感じる。

 

 たとえば上図の「オタ活」を「アイドルのライブ」に置き換えてみると、それは「アイドルのライブを観に行くのが趣味で、他に趣味がない人」の生活であり、オタクとは限らないのでは? と思う。

 オタクでない人からすると、オタ活にかける時間、熱量の大きさ”のみ”でオタクかどうかが決まるという感覚なのかもしれないが、オタクをオタクたらしめるものは他にもあるように思うのだ。

 

 先に述べたとおり、オタクの生活は人それぞれ。なのであくまで一例だが、私の体感している「オタクの生活」は次のとおりである。

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  絵心(?)がないせいか、いびつな図になってしまった。

 

 表現したかったのは、まず生活の基盤にオタ活があること。

「オタ活のために仕事をしている」というより「オタ活をしているから仕事や生活ができている」という感覚が私は強いし、同じように感じているオタクも一定数いるはずだ(もちろん、そうでないオタクもいると思う)。

 また、同居家族や職業にもよると思うが、「オタ活のスケジュールをもとに仕事や生活の予定を組む」というオタクも多いだろう。イベントが入りそうな日は予め仕事を休みにしておいたり、ライブ配信の時間を見越してご飯やお風呂をすませたり。

 さらには、推しのSNSへの投稿をみて晩ご飯のメニューを決める、朝おきたら推しのポスターにおはようを言う——ただいまも言う——そんな若干気持ち悪いとも言える「オタク仕草」こそ、オタクの本分ではないだろうか。

 このように、さまざまな場面で推しが生活の一部となっている。それがオタクだと思うのだ。

 

 そして、「趣味・娯楽」「たまの贅沢」がオタ活とは別にあるというところも、上図で表現したかったことである。

 オタ活以外にも趣味があるオタクは多い。というか、オタ活が生活基盤に侵食している度合いが高ければ高いほど、息抜きとしての趣味には別のものを求めがちになるように思う。

 それは推しに飽きるとかそういうことではなく、推しを常に新鮮に感じるためにも、たまには他の空気も吸っておきたくなるものだ。私の場合、それは読書だったり、ゲーム実況動画を観ることだったりする。たまの贅沢としては、旅行に行くのも好きだ。

 

 もちろん、オタ活は楽しい。楽しいので「趣味・娯楽」や「たまの贅沢」の性質を持つことも多々ある。

 けれど、息抜き目的でオタ活をしている人や、オタ活以外に息抜きがないという人は、オタクのなかではむしろ少数派ではないだろうか(オタ活は息抜きに”も”なる、とは思うけれど)。

 

 この「オタ活と息抜きが異なる」というのが、オタクでない人とよく認識がずれる点である。

 オタクでない人はオタ活を「趣味」や「たまの贅沢」だと思っている(多分)ので、私がライブに行くと言えば「(息抜きができて)いいねー。楽しんできてね!」と言ってくれる。

 それに対して私は、何となく認識がずれてそうだなーと思いながらも、「はいー、楽しんできます!」と答える。心のなかで、オタ活ってそういうのじゃないんですよね……あと来週も再来週もライブ行くんですよ、って言ったら引かれるかな……などと考えながら。

 

———

 

 感染症の流行により、去年からライブの頻度ががくっと減ってしまった。他の現場も似たような状況だと思いますが、現場が減ってしまった現場型オタクのみなさんは、どのようにお過ごしでしょうか?

 私は最初のうちこそ「生活の一部が欠けて悲しい……さみしい……」と打ちひしがれていたけれど、「現場に行けない今こそ、別のことをやろう」と考えて、今は元気にすごしている(推しグループが家で視聴できるコンテンツを頻繁に提供してくれているおかげもある)。

 

 この文章もその一貫である。前々から書いてみたかったオタクについて、書くなら今だと思った。毎週のように通っていた現場がないのだから、時間はいくらでもある(はず……)。

 シリーズ化する予定なので、また次も読んでくれる人がいたら嬉しい。次回のテーマは「アイドルオタクの嫉妬心」を予定している(2月中の更新を目指す)。今回よりも自分の体験や主観の割合が増えると思う。

 

 最後に、公開されたばかりの推しグループのライブ映像を貼っておく。 推しの情報をここに貼るつもりはなかったのだけれど、この映像はあまりに素晴らしすぎて……(やっぱ貼るのやめよう、ってなったら消します)。

 推しメンはピンクの子です。

 


たこやきレインボー / Rainbow Plane~なにわのはにわ[Intro]

来年はもっと何か書けたら良いな。いや書くぞ。きっと、多分。

 べつに誰に頼まれているわけでもないし、ブログなんて書かなくても良いのだ。けれど私は書きたいし、書かなければ、とも思う。

 そのくせ、年に数回しか更新しない。自分の願望と決意を裏切り続けている。年末になり、ああ今年もたいして書かなかった……という後悔の念から、いま、この記事を書いている。

 私が文章を書きたい理由。ひとつには、日記へのあこがれがある。日々の出来事や思考を文章でつづることに昔から漠然とあこがれてきた。他愛ない内容であっても、自分でつづった文章が蓄積されていくのはきっと楽しいことだと思うのだ(思うのに、いざ日記をつけはじめると二日も続かない……)。

 また、最近みた悪夢の影響もある。それはそれは恐ろしい夢で、いい歳をして泣きながら目覚めた。

 夢なので筋書きは支離滅裂だが、要約すると、私には言いたいことがあるのに上手く言葉にできず、誰にも理解してもらえずに誤解されたまま孤立する、という夢だった。最後に死んだはずの祖母が出てきて、「大丈夫。おばあちゃんは〇〇ちゃんの言いたいこと、ちゃあんとわかってるよ」と優しく言うのだが、夢のなかの私は「おばあちゃんは死んでるやん! 生きてる人にわかってもらえないと意味ない!」と大号泣。そこで目覚めると、現実でも泣いていた。30歳の夜泣きである。

 言いたいことがあるのに言葉が浮かばず何も言えないまま、というのは実際によくある。私にとってはかなり現実味のある夢だった。現実味があるぶん恐ろしく、そのとき味わった恐怖はいまも消えずに、焦燥感となって私のなかにある。文章を書くとか人と話すとか、何かしらの自己表現の訓練をつまないと、あの夢がいつか現実になるのではないか、という焦り。

 そういうわけで、来年、2021年こそは定期的に文章を書きたい。その決意を、いまここに宣言する。

 

 何かしらテーマを決めて、月いちくらいで書けたらいいなと思う。テーマはなんでもいいのだが、「アイドルオタクのオタク論」と銘打ってみようと考えている。

 単に自分がオタクなので、自分自身のオタク観についてまとまった文章を書いてみたかったということと、推しているアイドルグループ「たこやきレインボー」の春名真依さんが Instagram で連載している「アイドルのアイドル論」へのリスペクトを込めて。

春名真依さん「アイドルのアイドル論」の第1回はこちら) 

 

 ただ、内容的には「アイドルのアイドル論」に遠く及ばない、ただのいちオタクの主観や雑感になる予定だ。「アイドルオタクはかくあるべし」といったことを書く気は毛頭なく、「私はこうやってオタクしてるのが楽しい、最高」とか、そんな自分語り的な内容になると思う。

 なので、「オタク論」などと銘打つのは違う気もするのだが、書くモチベーションを維持するためにも、タイトルだけ「アイドルのアイドル論」をオマージュしたいと思った。真依ちゃんの頑張りにあやかって、私もいつもより頑張れそうな気がするので……。

 もしこのタイトルで嫌な気持ちになる人がいたら申し訳ない。いちファンが個人ブログでこっそりやることなので、どうか許して(見逃して)ほしい。

 

 というわけで、「アイドルオタクのオタク論」を年明けから書きます。多分……(もしこれで結局いちども書かないなんてことになれば、もう三日坊主どころの沙汰ではない)。

 今のところ予定している各回の小テーマは、下記のとおり(順不同)。

  • オタクにとってのオタ活 〜非オタとの認識の差異〜
  • オタクの金銭感覚
  • アイドルオタクの嫉妬心
  • 在宅オタクと現場オタク
  • オタクという共通言語

 5回分のテーマがあるので、少なくとも5か月は書き続けられるはず。自己満足のために、2021年頑張るぞー。

 

 

 ところで、亡き祖母が夢に出てきたのは、きっと前日にドラ○もんの某映画をチラ見したからだと思うのだ(テレビでやっていた)。

 こんどは悪夢じゃなく、楽しい夢に出てきてほしい。

手ごたえ

「打鍵感」という言葉がある。パソコンのキーボードを打つときの感触のことらしい。2〜3万円もする高価なキーボードのレビュー動画で、YouTuberがこの言葉を連発していた。「このキーボードは打鍵感が素晴らしい」「こちらは打鍵感が物足りない」というふうに。

打鍵感。私には耳馴染みのない言葉だった。

高級なキーボードがとくに欲しいわけではないが、紹介動画は見ていて面白い。もし買うならこれかなあと考えるのが楽しいし、何より紹介している人が楽しそうなのがいい。

動画のおかげでキーボードの種類に少しだけ詳しくなった。メカニカルキーボードの機械軸には青軸・赤軸・茶軸の3種類があり、それぞれに打鍵感や打鍵音が異なる。キーストローク(キーの沈む深さ)やキーの表面の素材によっても、打鍵感は変わってくるという。

打鍵感への意識が低い私には、「カチカチするキーボードとカチャカチャするキーボードがあるんだな」くらいしか具体的なイメージは持てなかったものの、

「キーを押したときの『押した感』がしっかりあるのがいいですね」

「キーが手に吸い付くような感覚があります」

と、そのYouTuberが打鍵感をさまざまに語る様子はたいへん興味深かった。ある人にとっては単なる入力機器であるキーボードの、打鍵感というものにここまでこだわる人がいるのだ。

 

打鍵感。キーを押したときの反発によって生まれる手ごたえ。押した感。

マニアックだなあと思う一方で、「手ごたえへのこだわり」は人間の本質のようにも思う。

たとえば、電子書籍が世に出てきたとき、その利便性を認めつつ「紙の本がいい」という人はかなりの割合でいた。理由をきくと「紙の感触、ページをめくる感触が欲しい」という意見が私の周りでは多かった。「紙の匂いが好きだから」という人もいた。今や電子書籍で読むのが主となった私も、たまに重さや厚みを感じながら紙の本を読むと、やはり楽しい。ハードカバーの本を閉じたときの顔にかかるわずかな風やパタンという音で、物語が終わって現実に戻ってきたことを感じたりする。

ちょっと種類は異なるが、ソシャゲで序盤にレベルがばんばん上がるのも、そのほうが「手ごたえがあるから」だと思う。コンソールゲームのコントローラが振動するのも、手ごたえを生むためだろう。

いちばん誰にとっても身近な例では、「食感」がある。ひとは、味や栄養と同じくらい、食感も重視して食文化を育んできた。食事の満足度を表す「食べごたえ」という言葉もある。

どんな行為でも、行為の直接的な成果だけでなくその過程にある「手ごたえ」が大きな価値をもつことがある。

 

感染症が流行し、「新しい生活様式」が提唱された。

感染症の流行を抑えるには必要な、合理的な指針だと思う。でも、ふと不安になる。「新しい生活様式」がこのまま長く続けば、私たちの生活はいろんな「手ごたえ」を失ってしまうのではないか。

それは、ある人にとっては大勢で集まって同じ皿の料理を食べることかもしれないし、またある人にとっては、満員のライブハウスで人いきれの熱量に溶け込むことかもしれない。他者の目にはマニアックとも映るそうしたディティールが、その人の生活の「手ごたえ」であり、「生きがい」だったりする。

 

生きのびること自体に不安を抱えている人にとっては、お気楽な不安かもしれない。けれど、手ごたえがない生活はいつまでも続けられないだろう、とも思う。

「新しい生活様式」って、いつかは終わるんですよね? 私は私が大切にしている「手ごたえ」を、まだ未来に期待していてもいいんですよね?

と誰かに問いかけたくなるこの気持ちは、きっと私だけのものではないだろう。