わたしがどのような「人見知り」であるかについて、またお酒が好きな理由

わたしは人見知りである。と、わたしは思う。わたしってものすごく人見知りだなあ、と思いながら生活をしている。

けれど、「わたしは人見知りである」ということを人に言うと、「え? いやいやいや(笑) 全然人見知りちゃうやん」という反応が返ってくることも結構ある。

なるほど。わたしは確かに人見知りに見えないかもしれない。いったん「あ、今はしゃべってもいいんだ。こんなノリで話せばいいんだ」と分かると結構話すことができることも多いし、しかも基本的に声が大きい。

それでもわたしは自分が人見知りであると感じる。話しだすのに必要な、わたしの頭の中の「こんなノリでしゃべろうスイッチ」が、どうも人より固いように思うのだ(あるいは他の人はこんなスイッチみたいなものなんて持っていないのだろうか?)。

えい!と思いっきり押さないとなかなかスイッチがオンにならない。わたしの話し声が大きめなのは、頭の中でスイッチを押すために勢いをつけた、その勢いの名残が声に乗っかってしまっているのだと思う。その証拠(?)に、話し慣れた相手(はじめからスイッチがオンになっているような相手)に対してのわたしの話し声は、そうでない人相手のときと比べると小さめの音量で、低い。

わたしの中の「人との仲の良さ」の1つの基準として、このスイッチがはじめからオンになっている、あるいは落ち着いて静かにスイッチをオンにすることができる、というのがある。これができると、わたしは「この人とは結構仲良くなれた」と感じる(思えばなんて一方的で身勝手な基準なのだろう)。逆にこれが出来ずにスイッチを押すのに思い切りが必要だったときは、スイッチを押した後の会話がいくら盛り上がろうと、「この人とはまだ仲良くない」と感じてしまう。

会話の頻度が高くなればスイッチがだんだんやわらかくなっていくかというと、もちろんそういう場合がほとんどなのだけれど、スイッチを押すこと自体に慣れてきて、「この人にはこのスイッチを押して話せばいいから押そう! よし押すぞ!! えい!!」という風に毎回力をこめてスイッチを押す作業が必要な人もいる。どういう人に対してこうなってしまうのかは分からない*1

わたしは多分、人と話すのが結構好きだ。でも、人と話すための頭の中のスイッチを頑張って(ときには体当たりのようにして)押すことや、スイッチを押した後の自分の話し声の上ずった感じが好きではない。スイッチを押すのが嫌で、人と話すことを意図的に避けてしまうこともある。*2

だからお酒は好きだ。お酒はわたしの頭の中のスイッチを少し滑らかにしてくれる。スイッチを押す瞬間、押した直後の無様な自分を忘れさせてくれる。お酒を飲みながら話している人とは、一時的にではあるけれど、仲良くなったような気分になれる。人と仲良くできていると感じられると、少しだけ自分を好きになれる。楽しい。*3

仲良くなりたい人たちがいる。わたしの頭の中のスイッチは、まだまだ、全然、固い。どうやったら仲良くなれるのか、何がどうなればスイッチがあまくなるのか全然見当もつかないけれど、とりあえず一緒にお酒を飲みたいなと思っている。「飲みに行きませんか」ぐらい言えたらいいのだけれど、まだそれを言うためのスイッチを押せずにいる。

*1:こんど考えてみよう。

*2:わたしが頭のスイッチを頑張って押すのが苦手なのは、もしかしたら「頑張っている自分がなんだか格好悪い」という稚拙な理由かもしれない……これもこんど考えてみよう。

*3:もちろんお酒は美味しいから好きというのが一番の理由ではありますが